【読書】「社内プレゼンの資料作成術」著:前田鎌利の感想
「社内プレゼンの資料作成術 著:前田鎌利」という本があるのだけれども、この本が意外と良かったのでご紹介・・・といってもまだ全部は読めていないのだけれども(笑)
なぜ、この本が良かったのかと言えばこの本はその名の通り、「社内プレゼン用の本」なのだけれども、複雑なものをシンプルに伝えるための方法がぎゅっとこの本の中に収められていたから。
本の帯に「孫正義社長が「一発OK」を連発した社内プレゼン術を全公開!」とあるのだけれども、読めばなるほど、納得ができる一冊となっている・・・気がする(笑)
(何度も言うけれども、まだ全て読んでいないため)
シンプルに・・・けれどもロジカルに・・・なかなか難しいことだけれども、この本を読めばなるほどと納得。
ちょっとだけこの本の肝となる中身を紹介すると・・・
上の写真の部分がこの本の肝。プレゼンにはストーリーがあり、それは「課題>原因>解決策>効果」。
まず、「相手にどんな課題があるか?」を伝え、「その課題が生じる原因は何か」を伝える。その後に「その原因を解消する具体策の提案」をし「提案内容を実施した場合の効果予測」を伝える。
ものすごくシンプルで、これをパワポ9枚分にシンプルにまとめて伝えましょうというもの。
これ、ものすごく大事です。ビジネス上で相手に何かものを伝えるとき、必ずこれを実践してください。恐ろしいほどに伝わりますから。逆に基本はこれを覚えれば、あとはあらゆるものに応用できます。
課題と原因を提示することで現状報告して注意を喚起をし、その後に解決策と効果を生み出すための提案をする。ものすごくシンプル。
これオススメです。
動画メディアという病。
文章を書くことが好きな人でないと、インターネットを使って稼ぐことは不可能なのではないかと思う時がある。
今でこそ、動画で自分の考えなどを伝えることが可能になったけれども、本質的に文章でしかひとの心を動かすことは出来ないのではないかと思う時がある。
動画は確かに便利だ。でも動画はどうも真意を伝えることが難しい。これはどういうことかというと、文章なら何度も理解するまでその文を読もうとするけれども、動画の同じシーンを何度もみて・・・ということはよっぽどのことが無い限りしないでしょ?
ものすごくその動画が好きだとか、その動画のファンである、研究している・・・というのならば、すり切れるまで同じところを再生してみるかも知れないけれども一般的には、そういうことってあり得ないと思っている。
けれども、文章なら比較的何度も同じところを読んで理解することができる。この人は一体何を言いたいのだろうかと、わかるまで戻って読むことが一般的であり容易だ。
さらにいうと、動画は流し見することができる。一方で文章は流し読みすることが出来ない。自分から働きかけなければ読むことが出来ない。これは一見同じものをみている、読んでいるようでいて、大きな違いだ。なぜなら一方は頭を使うこと無くみることが出来るけれども、一方は頭を使わなければ理解することが出来ないからだ。
そう考えると動画は受け身のメディアなのではないかと思うことがある。自分から発信しているようで流し見されてしまう、受け身のメディアなのではないかと思う時がある。
企業の声が消費者に届きにくくなっている世の中。
明らかに10年前と違うことがあって、それは企業の声が消費者に届きにくくなっていることなのではないかと思う。
昔なら消費者に届いた言葉は今はもう、消費者に届きにくくなっている。なぜなら、そこに嘘があることを消費者が気づいてしまったからだ。語弊を恐れずに言えばだけれども。
消費者を取り巻く環境も変わった。インターネットの普及により、消費者は商品を購入する前に、使用者の感想、いわゆる口コミをみて、その商品の実情を納得するまで調べることが出来る。企業が言っていることはウソなのか、それとも本当なのか・・・効果はあるのか、効果はないのか・・・・実際に使用してみた消費者の声がインターネットという仮想空間を通じて至る所に散りばめられている。
嘘がつけない世の中になったと思う。
では、そんな時代にどのようにぼくたちは立ち向かっていけば良いのか。まず第一に言えることは誠実に商売をするということ。ウソをつかないということ。
第二に、大きなマスを狙うのではなく小さなニッチを狙うということ。一部の消費者のインサイトをえぐるようなものを提供するということ。一部の消費者にとって魅力的な商品にするということ。
そして第三に、恐れないこと。消費者の目ばかりを気にしていたら何も始まらない。消費者の意見を汲み取ることも大事だが、振り回されてはならない。それを見極める目を鍛えなければならない。
そして最後に、以上の大前提として「今までのやり方を捨てなければならない」ということ。市場を取り巻く環境が変わったのにも関わらず、同じ方法で戦いを挑んでいる企業が多すぎる。
例えるならば、相手が拳銃を持っていると言うのに、ナイフで応戦しているようなものだ。そんなもの勝てるはずはない。環境が変わっているのにも関わらず肉弾戦で応戦しても仕方がない。
今の世の中はある意味フェアーだと思う。大きなものの存在や価値が崩れていってしまっているのだから、ある意味チャンスだと思う。この現状をどうとらえ活かしていくのかはあなた次第だと言える。
鬱憤を晴らすための手段としての業。
多分だけれど、語弊を恐れずに言えば、なにか、こう、鬱憤を晴らすためにビジネスをやっているのではないかと思う時がある。
ぼくはその鬱憤を晴らす手段として、ビジネスをやっているけれども、もちろんそれは人によって違って、芸人さんだったら、その鬱憤とした気持ちを芸に昇華させて、人の笑いをとるし、作家さんだったら、その鬱憤としたやり切れない気持ちを言葉にして落とし昇華し素晴らしい作品を書き上げる。
それぞれ、手段は違うけれども、本質的にはどれも同じなのではないかと思う時がある。自分の中の沸々と言葉にできないけれども煮え滾っている気持ちをそれぞれの職業という手段でぶつける。
それがぼくたちが生きているこの世界なのかも知れない。そう思う時がある。
成長するためにひつようなこと
器用なひとほど自分でやりすぎる。自分がやった方が早いから、自分がやった方がうまくいくから。だったら自分でやれば良い。個人の会社を設立し、自分だけでやれば良い。
でもそうじゃない。自分だけではできないから会社がある。ひとが育たない会社に未来はない。
ひとは任せることで、成長する。ひとに任せられるようにならないと行けない。上に立つものは、例え、みていて危なっかしくても、じっと耐え、ひとの成長をみまもらなければならない。
仲間へ指示を出すのではなく、仲間にしっかりと考えさせる。
自分の価値観ですべてを判断してはダメだ。自分の価値観をおしつけてはならない。様々な価値観が存在し、混じり合うからこそ、更なる高みへと登り詰めることが出来る。
しかしながらしっかりとした軸を持ち、ぶれない価値観をもちながらも、根気よく押し進める。それしか道はない。